才能とは?

自分にはどんな才能があるのか。考えたことがある人は多いのではないだろうか。私は何を始めるにも自分にこの才能はあるだろうかと考えてしまう。才能がなければやっても意味がないと心のどこかで思っているのかもしれない。しかし、悲しいことに私の才能はどう探しても見つからない。才能とは一体なんだろう。

記事掲載日:2017.01.05(この記事は 2019.06.15に修正されました)

美弥子は二番線ホームで電車を待っていた。

特に用事があるわけではないが、休みの日の日には運動不足解消のため外出することにしている。

「電車が参ります。白線の内側までおさがりください」

アナウンスが流れ、電車が入ってくる。

真から冷えるような風がホームに吹き抜け、車内に乗った美弥子はほっと息をついた。

美弥子の期待を裏切らず、車両に乗ると暖かな空気が美弥子を包み込んだ。

扉がゆっくりと閉まり、電車が動き始めた。

ガタンゴトン。

変わらないリズムに身を任せながら、美弥子は何気なく視線を移した。

目の前に見通しのよい景色が広がっている。

一番前の車両に乗るのはいつものことだが、車掌のすぐ後ろに陣取ることは滅多にない

。美弥子は体を少し動かし、車掌の斜め後ろで景色を眺めた。

天気が良いおかげで、近づいては去っていく景色がよく見える。

ふとガラス越しの車掌を見ると、車掌は時折、右手で指差し確認をしながら、進行方向を見つめていた。

『何を確認しているのだろう』

美弥子は車掌がどこをみて、何を確認しているのか気になった。

しかし、信号機もなく、踏切もないところで、車掌は指差し確認をしている。

考えているうちに、次の駅が見えてきた。

今まで気がつかなかったが、一番前の窓からはホームの様子がよく見える。

ふと、ホームに落ちる人もよく見えるのだろうと思い、美弥子は顔をしかめた。その間も電車は走り続ける。

『お見事!』

美弥子は心の中で拍手した。

止まるとは思えないスピードでホームに進入した電車は、所定の位置にピタリと停止した。

鉄(鉄道オタク)でなくとも楽しくなる。

車掌は指差し確認しながら、次の駅、また次の駅へと電車を走らせてゆく。

『眠くなったり、考え事をしたりして、駅を過ぎてしまうことはないのだろうか』

実際に起これば大惨事になるのだから、そんなことがあるはずがないと思いながらも、美弥子は微動だしない車掌にふとそんなことを思った。ひと駅、ふた駅ではない。何十駅、何十分、何時間と運転し続けるのだ。

テレビ番組で見たのだが、心筋梗塞などの急病で倒れてしまったときを想定し、アクセルレバーから車掌が手を話すと電車は急停止する仕組みになっているそうだ。つまり、右手は一瞬たりともレバーから決して離すことができない、ということだ。

『私には無理だな』

美弥子は車掌に敬服し、電車を降りた。

才能って特別な人にしかないの?

「才能」というと特別な能力のような気がするが、私は誰にでもあるものだと思っている。

その道一筋で仕事をする人の中には、「他にできることがなかった」「家業を継いだだけ」という人もいるが、才能なくして仕事を続けることができるだろうか。

「好きなだけ」という人もまたしかり。

どんな理由だったとしても続けることができるのは、その道の才能を持っていたということではないだろうか。

それはプロ野球選手やアーティストなどの職業だけでなく、床屋さんや魚屋さん、サラリーマンにだって同じことがいえるのではないだろうか。

何事も続かない私にとっては、続けられることこそ、その道を進む才能を持っているのだと思えて仕方がない。

私の才能はいまだ見つかっていないが、「私には才能は一つもないのだ」とは思わないことにしている。人間誰にだって才能があるはずだ。

ただ見つかっていないだけ。

見つけようとして見つかるものではなく、見つけようとすればするほど見つけられないものなのかもしれない。そう思うなら探さなければよいのだろうが、何かを始めるときに必ず思ってしまうのだ。この才能はあるだろうか? と。当然、始めることを躊躇してしまう。

始めもしないのだから、才能を見つけるどころの話ではない。もしかしたら私の才能は一生見つけられないかもしれない。

だがものは考えようだ。
その分、とてつもない才能を持っているかもしれないと夢を見続けられるというメリットもある。それを良しとするか、空しいと思うかは人それぞれ。前者である方が断然、人生は楽しいと思う。

松江ブログ(M2エムツー)
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